以前に書いた原稿

前回のリハビリを見学された池田先生について。
自分は本当に池田先生にリハビリを観察して頂いただけで、池田先生のお顔もお名前もはっきり覚えているなんておかしいと思った。

ところが、過去のメールボックスの中に、1通、2008年に池田先生に送ったメールが残っていた。
内容は、認知運動療法研究会(現在、認知神経リハビリテーション学会に改名)の会員に配布されるtemiという冊子の原稿だった。中里先生に原稿を書いてみてはどうか言われ、書いた原稿をメールで送っていたことを思い出した。 中里先生と池田先生の認知運動療法における仕事の関係はかなりあり、私が大久保病院で受けた認知運動療法の戦略(?)は、池田先生も一緒に考えてくれたのではと思われた。

添付されていた原稿である。

--------------------------------------------------------


これまで認知運動療法を約4年間続けている。 その間、様々な身体の変化が起きたが、特に印象的なものとして足の装具が不要になった体験と、徐々に我に返っていく経験について書きたいと思う。

私は勤務中に突然倒れ、失語症を伴う重度の右片マヒとなった。 倒れて約1ヵ月半で峠を越えたと家族から聞いているが、確か自分が枕もとにあるカレンダーを見て「まだ倒れて1ヶ月半しか経っていなくてよかった。」と思ったのを記憶している。 右半身が動かない状態になってしまっているのに、会社を休んでしまっている期間だけを気にしていて「よかった」と感じている時点で、そのとき自分の身体が片マヒであることは気にも止めていなかったと思っている。 片マヒになってしまったのだから、何でも片手で行う生活が始まったのだが、これからどう生活していくかなどを考えることもなかった。 今思うと、本人は能天気で、周囲の人間が苦労していたと思う。 ただこのときの私も不都合に感じていたことがあり、それは失語症で片言でしか言葉を話すことができないことであった。

退院後、認知運動療法開始前の生活

退院後は、病院では感じることがない不都合がいろいろあった。 私は250が120より大きいという違いはわかっていたが、それを足し合わせることができなかった。 一人で買い物するにも計算ができず、2,3百円台を超えない品物をいくつか選び、支払いはいつも1000円札で買い物をした。 一人の友人にメールを打つにも何時間も時間がかかり、そのメールの内容も何箇所も助詞が間違っているなど、いつも夫に内容を確認してもらってから送信していた。 本を読むにしても、せいぜい見開き1ページ読んだだけで頭が疲れ、読んだ内容もほとんど忘れていた。

洋服もおしゃれをするためではなく、転倒してしまうことを考えて常にジーパンを履いていたが、着替えた後に身なりを整えることはなく、人から言われるまでジーパンの裾がまくれているようなことには気づくことができなかった。

そして常に気になっていたことは、自分は目が覚めていない感覚であったことだ。 起床後に突然計算したり本を読むなど普通はしないと思われるが、私の場合ちょうどそのような“寝起き状態”であるような、頭がぼーっとする感覚が1日中続いていたのである。 頭がすっきりしないので何度も目をこすってはみたが、一向に頭の中が目覚めては来なかった。 私はこの眠気が取れれば、今の身の回りに起こっている不都合は解消されるのではないだろうか・・と感じていた。

認知運動療法を開始

大久保病院で約3ヶ月のリハビリ入院を終え、約2年はPTを受けるため月2回程度通院していた。 その間の病院におけるリハビリ目標は、今行っている認知運動療法に比べてみると非常に低かったと思う。 診察でも、リハビリ状況については歩行距離が伸びたかどうかを尋ねられるだけであった。 また私の場合、普段よりも長い距離を歩いたりすると足を痛めており、そのときリハビリに通院する目的は、その足を楽にしてもらうことであった。

ある時から中里先生が異動で来られ、大久保病院で認知運動療法が始められたとお聞きしている。 だがいつも頭が“寝起き状態”であった私は、従来の療法から認知運動療法に切り替わったという記憶はない。 ある日リハビリ途中に、「この最近始められたリハビリは面白いですね。」などと先生に話した記憶がある。 すると当時のPTのセラピストは、「え?もう半年位前から行っているのよ。」とおっしゃった。 この時期から“寝起き状態”から徐々に覚めはじめ、自分の記憶が定着してきたのではないかと思っている。

退院後はPTのみリハビリを受けていたが、徐々に歩行時にはマヒ手が肩辺りまで持ち上がるようになった。 そこで私を見てくださっていたPTのセラピストは、OTの指導が必要ではと依頼したことがきっかけで、中里先生にOTを指導して頂くことになった。

中里先生は、リハビリを終えた後に、リハビリ途中に感じていて話すことができなかったことをレポートに書いてください、とおっしゃった。 失語症は口から思うように言葉を発することができないだけではなく、頭の中で言いたいことを文章化することがうまくできない。 当時話したくても言葉にできずにいた私にとっては、リハビリを終えた後にその日行った内容を回想しながら、そのとき自分が感じて言いたかったことは何であったかを、時間をかけて言葉に変換するよいトレーニングになったと感じている。 

それだけでなく、レポートを書いている最中に、マヒ側の腕で何かが動いている感覚がしたり、リハビリを終えた後に外出すると歩き方がよくなったりすることがあった。

そしてある日気がつくと、自分の頭はすっきりと目覚めていた。

痛みで足の装具が履けなくなる

PTのセラピストから、日頃装具を取れるといいですね、という話をしていた。 でも私の気持ちの中では、2年以上装具をしている骨のないような感覚の少ない貧弱なマヒ足を思うと、装具を外した生活はやはり考え難いと感じていた。 だが、家族以上に親身になって指導して下さるセラピストを思うと、私でも何かできることをやらなければいけないのではないか・・・と常に感じていた。

ある晴れた日に、時間はいっぱいあり、いくら貧弱な足でも一歩ずつ、歩みを進めることができないわけでもないのだから、試しに時間をかけて近くのお店まで歩いて買い物に行こうという気になった。 慎重に慎重を重ね、何とか自宅とお店を往復した。 装具をつけずに杖だけで外出してしまったことについて、達成感を味わうことができた。

しかし翌日には、昨日のような装具をはずそうという意気込みは感じられず、いつものように装具をつけて外出した。 するとしばらく普通に歩行していたが、次第にマヒ足の足の裏側がちくちくと痛み出し、最後はガラスの破片を踏んでいるのではと感じる痛みになった。 何か異物が靴の中にあるのかもしれない、と靴も装具も脱いで確認したが何も入ってはいない。 その後は装具をつけずに歩くと痛みは全くなく、装具をつけると再び激痛が走るというように、頻繁に装具をつけたり外したりして歩いた。

セラピストにこの事を話すと、突然マヒ足が装具を拒絶することは理論的にはあり得ることで、今は過渡期にあると考えなければならないのかもしれないとおっしゃった。

装具を履けば痛みを我慢して歩かなければならず、装具を外せば慎重に慎重を重ねて超スローペースで歩かなければならない生活となったわけで、試しに装具をはずそうというきっかけが、結果的に歩きづらい生活に変えてしまったのか・・・と一時期落ち込みはした。 しかし後者の痛みがなく装具をつけない歩行の方がよいことは明らかだったので、元のスピードの歩行には2,3ヶ月を要したが、このことで装具をつける生活から開放された。

認知運動療法の治療は、無視してきた自分のマヒの半身の存在を気付かせてくれたこと、それと失語症の回復であると思っている。 失語症は、他人の話している言葉は聞こえているが、その内容を理解できないことがある。 また自分の話したいこともうまく伝えることができない。 他人の話もあまり理解できず、自分の気持ちも伝えることができないため、私は水面下でただ周りを見ているだけのような気がしていた。 認知運動療法でセラピストに誘導されながら「自分の感覚を問う」ことを続けることで、ゆっくりと周囲の話がわかり自分の考えも伝えられる生活の場まで引き上げられて頂いた気がしている。 また「自分を問う」ことで、自分の不自然な行動や言動などに気付かされた。 バランスが悪い不自然な歩き方などの気付きはそうでもなかったが、特につじつまの合わないことを平気で話していたというような失語症に関すると思われる気付きは、穴があったら入りたくなるような恥ずかしさがあった。 でもその恥ずかしいと思うことを今、食い止めることができたのだと開き直ることにしてきた。

 今も過去の記憶で戻っていない部分や、倒れる前より頭の回転が遅いなど、脳の中の障害はたくさん残っている。 しかし目標あるリハビリを今後も続けたいと思っている。 障害のない人から見たらそれは些細な目標かもしれないが、片マヒでほぼ回復不可能と思われ諦めていた自分の身体が、実際はそうではなく少しずつ変化している自分の身体を考えれば、少しでも着実な目標を持つことは有意義に思えてくる。