失語症からの回復に有効だったと思われるリハビリの記録

今までリハビリ後に書いていたリハビリの記録はやめる。

リハビリの記録の中には、リハビリ中に考えたり感じたことを書くことなどが含まれる。
かなり前から現在その必要はないのではないかと先生は考えていたそうである。
リハビリを記憶することはよくない気がしてきた。
脳にそれまでの判断や考え方を、変えさせようとしている。
そういうリハビリにおいては、終わったリハビリを後から時間をかけて思い出し記録する・・・それをやめて新たなことに脳を使うべきではないかと思ったのでる。

中里先生から「お勧め」のあった片マヒのときのリハビリの記録は、それをはじめる前、当時の私にとって、体験を言語化することは、失語症回復にとっても、学習を定着させるうえでも、役に立つのではないかという中里先生のお考えがあったそうだ。


失語症は、うまく話せないだけでなく、書く文章がひどかった。
友人にメールを打ってもすぐに送信できず、夫のチェックが必要だった。使っている助詞がメチャクチャで、それがおかしいとわかっても自分で治せなかったのである。

失語症にわかりやい変化が起きたのは、頭に浮かんだ言葉がすぐさま口から出始めたときだった。

考えて文を書くことと、思ったことをしゃべることは似ていると感じる。
文を書くこともしゃべることも、考えを表現する方法である。
失語症で両方ともうまくできなくなくても、文を書くことは一応でき、文は人に読まれるものであり、自分で書く文が読まれることで理解されたい欲求があった。

でも自分が書くリハビリレポート読み返しても、その文の内容は自分の身体のことで、自分の身体に感じていることと文の内容は、一致していないと思っていた。

「何か違うんだけどな・・」と思いながら言葉を探し、その都度自分の身体で感じているものを確認しながらだったと思うが、文の表現は自分の身体に感じていることと近くなってきて、結果自分は良い方向に向かったのたと思う。

2度目の脳出血で聞こえず話せない今、失語症当時の不自由さはなくなり本当に感謝している。字を書くのも遅くしゃべることもできないが、考えが頭に浮かんでいる自由さを感じている。
たぶん失語症とは、自分の思いに合致する言葉の選択がうまくいかずに、自分を表現できない状態にあった気がしている。